父のシベリア抑留

シベリア鉄道ウルガル線を走る貨物列車(筆者撮影)

 

1.はじめに

 日本人の抑留は、不条理極まりない国際法に違反するスターリンの蛮行でした。加えて、抑留者は酷寒、餓え、疲労、病魔が襲う地獄の日々を体験しました。しかしそのような環境下にあっても、再び祖国の土を踏む日を夢見て友と励ましあい過酷な労働に耐えた日本人が残したのは、その後のソ連国民の生活に大きな寄与をした立派な建築物、土木構造物でした。そこには「日本人として恥ずかしくない仕事をする」日本人の誇りがありました。こうした多くの公共資本は今でも人々が活用しています。質の高い仕事、優れた耐久性と機能美を備えたものです。そして地元の人たちには、今でも日本人の素晴らしい仕事ぶりが言い伝えられ、村人が日本人の墓を守ってくれています。

 60万人以上の日本人がどのような土地に強制収容され、どのようなものを残したのか。日本人としてこの歴史を直視したいと思います。多くの日本人とロシア人にに知っていただくことを願うものです。そのことがロシアと日本の新時代を拓く端緒になると考えます。

2.父のこと

 父、山辺秀夫は1923年(大正12年)10月23日、富山県東礪波郡福野町寺家新屋敷に姉、弟二人と妹の5人兄弟、農家の長男として生まれました。昭和11年小学校を卒業した父は、富山県立農学校に給仕として奉職します。東京帝国大学農学部を出たばかりの新人教師である吉田実の身の回り整理、馬の世話や園芸実習の準備などをしたといいます。吉田実は後に、大島村農協長、大島村長、富山県知事、衆議院議員になった富山県を代表する政治家でした。

 昭和16年、18歳の年に父は神奈川県相模原の陸軍機械学校に入学します。鍛工科で大砲など兵器づくりを学び、昭和18年20歳の年、いよいよ兵役につきました。配属は満州の、朝鮮ソ連国境にある琿春の砲兵隊でした。

 昭和20年8月9日ソ連の侵攻、18日にソ連軍に投降するまでの交戦の様子や収容所の寒さについて父が少しばかり話したのは、私が大学生であった昭和47年、酒を酌み交わしながらであったと思います。父は4年間の抑留の後、昭和24年10月に舞鶴に帰還して以降、20年以上も家族に抑留の話しをしませんでした。私が聞いたのもその時の1回だけで、その後77歳で亡くなるまで心に深くしまい込んでいたようです。

 父は織物工場の経営者となり戦後の復興に没頭しました。平成11年に没するまで、家族や友人と充実した人生を送ったと思います。

3.ティルマ

 父は収容所の名前を言いませんでした。父が亡くなって10年もたったある日偶然に、書店店主の山田順悌さんが、父と同じ収容所だったと教えてくれました。山田さんは1926年(大正15年)生まれ、学校を出てから地元の私鉄で働いていたが、一旗揚げたいと南満州鉄道に移り、終戦直前に現地応召されました。ソ連の収容所には、後から父が来たそうです。技術軍曹だった父は日本人の取りまとめをしていたようですが、名簿を見て山田さんを同郷と見抜いたそうです。山田さんは抑留期間3年で先に日本に帰ることができて、父の実家に「秀夫さんは生きているぞ」と伝えてくれたそうです。

 山田さんは、すぐには収容所の名前を思い出せませんでした。半世紀以上の年月が記憶を風化させます。「ハバロフスクの西数百キロ」「ティ何とか」まで思い出してくれたので、私は抑留関係資料とグーグルマップを数日かけて照らし合わせて「ティルマじゃないですか?」「おおそうだ。ティルマだ」、ようやく見つけたのでした。

4.慰霊訪問


慰霊碑にて

 2016年8月末に、私は全国強制抑留者協会の慰霊訪問団に参加し、ティルマを訪ねました。ティルマは、1930年代後半にシベリア鉄道の支線であるウルガル線の建設基地として開拓された村です。戦時中は独ソ戦の資材として線路がはがされましたが、戦後日本人抑留者を労働力として投入し、再び鉄道建設が行われたのです。

 2000人のティルマ村には舗装道路がありません。雪解けの出水が道に大きな穴を作り、車は穴を左右によけて通っています。日本人の慰霊碑は山の中、藪の中でした。ソ連崩壊以降、日本人の遺骨収容作業が出来るようになり、この慰霊碑は遺骨を掘り出した場所に立てられています。8月には日本人慰霊団が来るので、村長が道を塞いでいる枝を落とし、慰霊碑の周りをきれいにしてくれています。

 宿泊は村の病院です。昼間は時々通院者を見るのですが、入院患者はいません。スプリングが完全に伸びた細幅のベッドは、寝返りもできないので、私は床に寝ます。

5.抑留遺産

 ティルマは「抑留遺産」が保存されています。意図的に保存したのではなく、再建設する予算がないので結果的に残っていると言えます。

 私は2017年、19年にも訪問して事実関係を村長や学校長に聞きましたので、次にまとめます。

義務教育学校(ギムナジア) 
抑留者が作った病院を学校に転用。抑留初期は別に病院があったが、患者が増えたので抑留者に建設させた。内装は修繕しているが構造はそのままである。この病院で数百名の日本人が亡くなった。

木造二階建て集合住宅
数えてないのだが、50棟前後が現存している。ほとんどが現在も使われており、戸数としては500以上あるので、村民の6割が居住している。日本人が建設したものが多い通りは「日本通り」と名づけたいと村長は言っている。


木造二階建て集合住宅
 

給水塔
村は丘陵地にあり、馬の背の部分に給水塔があって現在も使用されている。また、駅のそばには蒸気機関車時代に使われた給水塔も残っている。月刊ASAHIの1991Vol.3No.8にロシアから提供された給水塔建設時の写真があり、日本人抑留者が馬で資材運搬して建設している様子が掲載されている。


給水塔

6.これから

 2020年はコロナウィルスによりシベリアへの慰霊訪問はかないませんでした。2021年には何とか慰霊訪問再開し、継続したいと思います。

 抑留遺産は今朽ち果てようとしています。戦後75年、建設時から70年以上を経ています。ティルマ村の村長が「日本通りと名付けたい」と言ったように、日本人の支援を待ち望んでいます。

 ハバロフスクの南にあるコルフォフスキー村の村長は、昨年日本庭園を整備し、当地で亡くなった13名の日本人の慰霊碑を立てました。また、毎年日本映画祭を開催し、日本との交流に期待を持っています。

 日ロの戦後処理が北方領土の帰属問題で暗礁に乗り上げたままです。難しい状況の中ですが、隣国と相互理解を深めていく方法を模索したいと思います。

 歴史を直視するところから相互理解を積み重ねていきたいと思っています。

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MiraiProject 山辺美嗣(やまべみつぐ)

政治・行政プロジェクトのコンサルタント

日本の未来をつくろう!
通産官僚・国連職員を経て、地方議員歴24年
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