山辺美嗣(やまべみつぐ)です。
今や全国にひろがった地産地消。
この「地産地消」政策は、私の提案で2000年に富山県で始まりました。
これから「地産地消」政策実現までのプロセスを振り返りたいと思います。
長い話になりますので今後もシリーズで書いていく予定です。
ご参考になれば幸いです。
1.身近にあった小さな話題3つ
私の身の回りでこんなことが起きていました。
① まちの八百屋が減っていた
② 農家は、作った野菜を自ら売りたいと考えている
③ 小学校の給食の管理栄養士さんが、新鮮な野菜の調達ができず困っている
この3つの事柄は、それぞれの当事者に話を聞いてみると、別々の事ではないと分かったのです。
ところで、八百屋(やおや)とは、今のコンビニエンスストアのようなものです。
若い方の中には知らない方もいると思い至りました。
コンビニのようにスマートではありませんが、野菜などの食材から、ほうき、電球など、近所の人にとって、日常に必要な物はひとまず揃う店でした。
2.背景で何が起きていたのか
それぞれの背景で起きていたことを整理するとこうなります。
よく観るとつながっていることがわかります。
① まちの八百屋が減っていた
→ スーパーマーケットが増えてきた
→ まちの八百屋が閉店に追い込まれる
→ 八百屋の仕入れ先だった地元の小さな市場も閉鎖された
② 農家は、作った野菜を自ら売りたいと考えている
→ 農家は、作った野菜の売り先、八百屋を失った
→ 農家は、作った野菜の卸し先、小さな市場も失った
→ 農家が作った丹精込めて作った野菜は「少量」なので、大きな市場は買い取ってくれない
→ 農家は売り先が無いので、農家同士で協力して自ら売ろうと考えていた
③ 小学校の給食の管理栄養士さんが新鮮な野菜の調達ができず困っていた
→ 地元の農家が作る野菜を扱っていた、地元の八百屋も小さな市場も無くなった
→ 新鮮で栄養価の高い地場でとれた野菜は、学校給食にも仕入れることができなくなった
3.当時の国家政策は「適地適作」
たとえばジャガイモは北海道、キャベツは長野、ほうれん草は千葉。
適地とされるところで大量に農作物を生産し、それを全国に流通させて販売する。
これは「適地適作」といって、1990年代当時の国の政策の中心だったのです。
農業を考える上では今でも大切な考えの一つです。
一方、少ししか作っていない地元の農作物は、市場をどんどん失い、ますます作られなくなっていきました。
当時は、事業規模を大きくして生産性を上げ競争力をつけることが強く推進されていた時代でした。
農産物市場も統合計画が進められており、閉鎖された小規模市場もその計画によるものでした。
「地産地消」どう展開したかは、今後も続けて書いていきます。