ソ連からロシアへ 指導者たち

山辺美嗣です。

光陰矢の如し 戦後76年の歳月は歴史上の人物の実像を知ることを困難にします。それはロシアにおいても言えることであり、若者にソ連時代の記憶は薄くなってきています。まして日本においては、多くの戦後世代にとってソ連は行ったことのない国でしたので、なかなかイメージすることができません。

私はロシアを訪問してロシア人と接する機会がありました。彼らは、祖国に誇りを持つ心優しい愛国者であり、私はロシア人に良いイメージを持っています。またロシアの人たちも、日本人に対して良いイメージを持っていると感じます。

プーチンは困難な時代にあるロシアの経済を立て直し、国民に希望を与えてきた優れたリーダーだと思いますし、私は日ロ平和条約に期待を持っています。

そうした観点からいま一度、日本との関係に触れながら、歴代の指導者たちの姿を見てみましょう。

スターリン 悪魔の仕業

ヨシフ・スターリン  1878-1953    写真出典 Wikipedia 

ロシア革命に参加し、レーニン政権下で党書記長となり、レーニン死去の後は最高指導者となった。国内統制派のスターリンは、世界革命派のトロツキーを追放、強制集団農場、大粛清、強制移住、追放虐殺、捕虜強制労働など恐怖の独裁政治を行った。また、第2次大戦中のソ連人犠牲者は、兵士1200万人と一般国民を含む、計2660万人とされる。(ロシア政府公表)

スターリンが最高指導者となった1924年以降の統制は、まさに悪魔の仕業と言えます。どれだけの人が亡くなったのか?合計してみると背筋が寒くなります。

強制集団農場政策は、農民から土地と家畜を奪い移住させ、富農を撲滅して、ウクライナ人を中心にロシア人やカザフ人を含むソ連人が、わずか5年間の間に400万人から1450万人が飢餓で死亡したほか、600万人以上の出生が抑制されました。

大粛清は反スターリン勢力の一掃であり、ポーランド人はじめ外国人35万人、ソビエト国民70万人が処刑されました。

強制移住は、数十万人のポーランド人、13万人のバルト3国人、ソ連内に居住する少数民族らをシベリアと中央アジアの強制収容所に移送して無報酬労働させ、その4割以上が感染症と栄養失調で死亡しました。

追放虐殺は、ソ連領内のドイツ系の少数民族ヴォルガドイツ人100万人以上を追放し処刑しました。

捕虜強制労働は、ドイツ兵200万人、日本兵60万人、その他にイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの捕虜が収容所に送られ、強制労働のため多くの死亡者を出しました。

私の父、故山辺秀夫は、満州のソ連沿海地方国境近くで終戦投降し、ハバロフスク地方で4年にわたってシベリア鉄道の敷設労働をさせられました。ソ連は戦時捕虜と呼んだが、実態は兵士でないものも満州、樺太、千島から強制的に連行した拉致でした。未だに実数が判明していないが、兵士以外も含め70万人から100万人の日本人が抑留され、10万人が死亡したと推測されています。

ゴルバチョフ 民主化へ舵を切る

ミハイル・ゴルバチョフ 1931-  写真出典 Wikipedia

1985年、ソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(抜本的経済改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進した。ソ連を民主化された新連邦にしようとしたが、保守派と改革派に政治勢力が分裂し、新連邦条約成立直前の1991年8月に保守派のクーデターで軟禁された。12月、ロシア共和国がソ連から脱退してソ連が解体したことにより失脚したが、その後も民間人として言論活動を続けている。

日本に初来日したのは、1991年4月であり、まさに失脚の直前であったが、これは病を押して訪ロした安倍晋太郎元外務大臣の功績でした。

ゴルバチョフはロシア語で書かれた3万人余の日本人死亡者名簿を携えて来日し、日本側と「捕虜収容所に収容されていた者に関する日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の協定」を締結しました。この協定により、捕虜収容所に収容されていた者に関して、死亡者名簿、埋葬地、遺骨と所持品の引き渡し、収容者名簿、慰霊碑の建立などについて日ロが協力していくことを取り決めて、戦後全く進展のなかった抑留問題が初めて前進したのでした。

エリツィン ソ連を解体し共産党を排除

ボリス・エリツィン 1931-2007    写真出典 Wikipedia

1985年、党中央委員会書記、モスクワ市党第一書記となり、ゴルバチョフを支持する急進改革派。1990年にはロシア共和国の最高会議議長、1991年6月にはロシア共和国大統領に就任。8月の保守派クーデターに際しては、軍を動員して2日間で保守派を排除。11月ソ連共産党の活動を禁止。12月にはロシア・ウクライナ・ベラルーシの3国がソ連からの離脱を宣言して、ロシア共和国はロシア連邦として独立し、ソ連は解体した。

1993年に初訪日の際、10月13日宮中での午餐の挨拶において、シベリア抑留問題を全体主義の悪しき遺産と位置付けると共に、ロシア政府・国民を代表して、この非人間的な行為に対して謝罪の意を表明しました。また、抑留者遺族の墓参に全面協力することを約束しました。

エリツィンは、日ロ平和条約交渉について1991年11月には既に決意を持っていたとみられます。ロシア国民から南クリル諸島の将来を案じる手紙へのエリツィンの返答の手紙が公開されているが、その中で以下のように述べています。

「日本との最終的な戦後処理を達成しなくてはならないと確信します。領土境界画定問題にいかなる合意が行われる場合でも、ロシア人の尊厳と利益を守っていくことを約束します。」

1997年11月、エリツィンは橋本首相とクラスノヤルスク会談で領土問題について2000年までの決着を合意し、翌98年4月には川奈会談で平和条約締結問題日ロ合同委員会次官級分科会の開催を約束しました。しかしその後両首脳ともに退陣し、2000年までの決着を実現することはできなかったのです。

プーチン ロシアの復活目指し長期政権

ウラジミールプーチン 1952-    写真出典 Wikipedia

ソ連国家保安委員会(KGB)その後身のロシア連邦保安庁(FSB)で活躍したのち、エリツィン政権末期の1999年8月首相となり、2000年1月大統領に就任した。メドベージェフとの大統領首相交代や大統領任期の4年から6年への改正を経て、現在の任期は2024年5月まで。

2003年に、プーチンと小泉首相は「日ロ行動計画」に署名し、既に1997年に両国が合意していた共同救難訓練に加えて、日ロの防衛ハイレベル協議など防衛交流の着実な実施を確認しています。日露は平和条約を未だ締結できていませんが、防衛関係の相互理解を進めており、現在まで毎年共同訓練が行われています。

2012年5月にプーチン3期に入ると、12月には第2次安倍内閣が成立し、8年間にわたる安倍・プーチン時代を迎えます。この間に、日ロの共同経済開発に関する事業の進展もありましたが、平和条約に関しては以下のようにプーチンの主張と態度は一貫しており、進展していません。

  • 日ソ共同宣言に基づき、2島を「譲渡」することで日本側を説得しようとしています。(北方領土は第2次大戦の結果としてソ連の領土となったのであり、日ソ共同宣言が「引き渡し」と記述しているのは、領土「返還」の意味ではないと発言しています)
  • 北方領土問題の解決と平和条約締結に常に意欲を示し、問題が解決に至らないのは日ソ共同宣言を履行しない日本側の責任であると主張しています。
  • 北方領土の主権が現在ロシアにあることは国際法で確立しているとし、北方領土で軍事演習や対日戦勝記念パレードを行い、北方領土の基地化も進め、北方領土に新型ミサイルも配備し、北方領土を経済特区に指定し土地無償分与を始めるなど、日本の領土返還要求を牽制する態度も示しています。

 

プーチンはたとえ話が好きです。「暗殺の企ては怖くないか」という質問にプーチンは次のように答えています。「ロシアの人々は『首吊りの運命にあるものは溺死しない』と言う。誰にでもいつの日か何かが起きるだろう。問題は、この儚い地上で我々に何ができるか、この一生の中で喜びを得ることができるか否か、それが問題だ」

柔道家であるプーチンに講道館は5段の認定を申し出ましたが、「その名誉にふさわしい人間になれるよう精進する」として断った話や、北方領土について「引き分け」を提案したりして、親日家をアピールするところは心憎いところですね。(その後、国際柔道連盟は8段を授与しました。プーチンは国際柔道連盟の名誉会長です)

写真出典 AFP